スタッフインタビュー | 岡田 吉弘

広告運用を中心としたデジタルマーケティング事業を展開するLIFT。スタートアップから大手企業まで、多岐にわたるプロジェクトを手がけていますが、拠点は首都圏ではなく石川県金沢市にあります。なぜビジネス的に有利な大都市ではなく北陸の金沢なのか? LIFTを今後どのような会社にしていきたいのか? 代表の岡田さんにキャリアの振り返りやLIFT設立の背景、意義について聞いてみました。

岡田吉弘 プロフィール

LIFT合同会社 代表

岡田 吉弘

おかだ よしひろ

プロフィール

SIer、広告代理店、グーグル、SVP東京、アタラ等を経て LIFTを創業。SEM黎明期から一貫して現場主義で、ソフトウェア開発から広告運用まで数多くの業種・規模のプロジェクト経験を有する。『ザ・アドテクノロジー』、『いちばんやさしいデータフィードマーケティングの教本』など、当時は新しかったが今は古くなってしまった著書多数。 LIFTと並行してアナグラム株式会社 取締役、株式会社リワイア 代表取締役、フィードフォースグループ株式会社(東証グロース)取締役等を経て現職。 趣味は街歩きやレコード・古書店巡りで、コーヒーとカレーの摂取率が高い。それらすべてを満たす土地だった東京・神保町にて創業し、現在はよりディープな石川・金沢が拠点。ツエーゲン金沢サポーター。

原点は就職氷河期?

ーー岡田さんのキャリア、ちゃんと聞いたことがないので教えてください!

岡田:大昔から話しますと、新卒はいちおうエンジニアでした。大学を卒業したのが2001年なので、その前年の2000年が就活のピークでしたが、当時は就職氷河期の中でも指折りの極寒期で新卒採用の枠が極端に少なく、空いているポジションにみんなが殺到するような異様なタイミングでした。

25年前の当時でも「自己分析しろ」とか「学生時代に力を入れたエピソードを作れ」など、現在と似たようなことが言われてまして、今ほどインターンシップは普及していなかったものの、就職活動はかなり早期化していました。でも、どんなにがんばったところで新卒採用枠自体がものすごく狭き門だし、私は周りと比べて特に秀でているところがなく意識も低い学生だったので、「自己分析なんて意味なし!」と早々にさじを投げて4年生の夏まで遊んでいました。

ーーふつうにダメ学生のエピソードですね…!

岡田:まったく否定しません。比喩的な意味で渋滞が苦手なので、数人の求人枠に対して何百何千と応募がきているような状況でがんばる気にはなれず、とにかく空いてる道を選ぼうと秋採用だけを狙いました。秋採用は10月の内定式までに新卒枠を確定できなかった企業が行う追加募集なので、「エントリーシートをかき集めて学歴フィルタでふるいにかけてグループ面接を何回もやる」といった春採用までの面倒なプロセスはほとんどなく、スピーディに試験が進むことが多いんです。なので就職活動を始めてすぐに内定を出してくれた中小 SIer に入りました。大学は文学部でしたけど、、、

ーー岡田さんはよく「技術者としては最底辺だった」とおっしゃっていますが、そうなんですか?

岡田:底辺です。理系出身者ばかりの職場に文系ダメ学生が飛び込んだわけですから、ほとんどゴミ扱いでした。デスマーチ気味のプロジェクトも多く、土日もなく働き続ける日々で、業務は何やってるのかは分かるけど興味が湧かないし、興味が湧かないから身にもつかない。1年目から死んだような目で毎日毎日満員電車に揺られる日々でした(笑)

人文知とシステムの接続

ーーつらい…! それで広告業界に転職するんですね

岡田:あまりにも使えないダメ新卒だったので、2年目には開発業務から外されて、エンジニアがあまりやりたがらないエンドユーザーが使う画面の設計を担当することになりました。ただこれが意外にも楽しかったんです。データベースと中間処理と帳票の構造を考えながらアウトプットを工夫する作業は、自分に合っていると感じました。

当時の先輩から「ちゃんとした画面設計だったと上司が褒めてたぞ」と言われ、それが社会人になって初めて誰かに認められた経験でした。根が単純なので「じゃあそっち側に行ったほうがよさそうだな?」と思い、開発ではなく設計や運用に近い仕事を探して転職活動を始めました。

ーー広告代理店や Google にはどのような経緯で?

岡田:転職活動を始めた時期が、ちょうど検索連動型広告が日本でも始まった頃でした。読んでいた「Web Creators」という雑誌に Google の記事が載ったことがあって、当時の日本法人トップの佐藤康夫さん(現・LIFT 顧問)のインタビューが見開きでドーンと出ていました。2002年はアドワーズ広告(現・Google広告)が出たばっかりの時期で、「検索結果に連動したテキスト広告を出せる」「広告のパラダイムが変わる」という趣旨の記事でした。

当時の記事の抜粋。この記事でも触れています

岡田:私は文学部出身なので文字を追うことは楽しめるのですが、「システムを構築するための命令文としてのプログラミング言語」がどうにも苦手で、ソフトウェア開発の仕事は馴染めませんでした。でも、この検索連動型広告という仕組みは、要するにユーザーが入力するテキストがクエリとなってデータベースから適切な検索結果や広告を引き出すという SQL なわけだから、つまり膨大な人文知とシステムが文字(クエリ)を通じて無理なく接続されるということじゃないか!と気づいたんです。それなら面白そうだと思い、そういった仕事はないかと探したところ SEO や SEM といった仕事があるのを知り、新興の広告代理店に転職しました。

ーーそこから現在の仕事につながるわけですね

岡田:そうですね。あの頃の広告代理店って本当に労務環境的には最悪なので、毎月300時間以上働くようなひどい日々でしたが、仕事内容自体は本当に面白かったのでギリギリ辞めずにできました。特に運用型広告を支える「品質を加味したセカンドプライスオークション」が好きで、ユーザーと広告とメディアの三方よしを支える仕組みに賛同して、Google の社員でもないのに、このプラットフォームはもっと広がるべきだ!と思って燃えてました。

この話はいろんなかたちで記事にしています

仕事もクライアントワークから経営企画や人事に移り、IPO 準備やなんやで忙殺されていました。四半期ごとに名刺のタイトルが変わるようなジェットコースターを3年ほどやったらだいぶ身体が疲れてしまい、いろいろやらせてもらえるので貴重な経験だとは思いつつも「このままだと過労死してしまうので何とかせねば」と思い切って佐藤さんに相談したところ、そのまま Google に入ることになりました。それが2006年くらいです。

パラレルにいろんなことをやる

ーーそこからはパラレルキャリアだとお聞きしたことがあります

岡田:Google に入社して「このプラットフォームはもっと広がるべきだ!と思っていたことがそのまま仕事になりました。一方で、Google は仕組みを提供する側で自ら運用はしないので、別にセールスなんていてもいなくても同じなのでは?と思う気持ちもありました。でも実際やってみると、どんなに素晴らしい仕組みでもプラットフォームである以上は使う人を増やさないと成立しない。だから自分も Google の一員ならリソースは 1:1 ではなく 1:N 、つまり梃子のようにレバレッジが利くように使わないといけない、ということに気づきました。「自分が頑張ればいい」のではなく「ユーザーや広告主、メディアなど、関係者みんながよくなるべき」という考え方をインストールできたのは大きかったです。

その考え方を敷衍して、同時期にソーシャルベンチャー・パートナーズ東京(SVP Tokyo)という、非営利向けの中間支援団体にも所属するようになりました。自分は社会課題解決の当事者にはなりえないけど、自分の力がもしソーシャル・アントレプレナーの役に立つのであれば、それが結果的に受益者を増やすことにつながるのではないかと考えました。この考えは今でも継続していて、私は金沢ですけど SVP Tokyo にはまだ所属していますし、LIFT でも非営利団体への支援は継続しています。

ーーそこからアタラ、LIFT、アナグラム、フィードフォースと続くんですね

岡田:話すと長くなるのでざっと端折りますと、Google は 5年ほど勤めて、その後は先輩だった杉原剛さんが立ち上げたアタラという会社に移りました。役員を7年間務め、4人から始まって数十人規模になったあたりで不惑が見えてきたので「そろそろ 40代をどう生きるか考えねば」と思い、とりあえず 30代最後の年に個人事務所を作ってみました。それが LIFT です。

LIFT は一人でゆるゆるやろうと思っていたところ、ありがたいことに広告代理店のアナグラム、SaaS 企業のフィードフォースにそれぞれ誘っていただき、取締役として伴走することになりました。IPO や互いの M&A 、その後の PMI などにも関わり、グループ会社のリワイアを設立したりと、同時に3−4社を見るという時期が続きました。私は引き算がヘタクソなので他にも非営利団体の理事をしたりとやることが増えて収拾がつかなくなってきたので、一度整理しようと思いました。

折しもコロナ禍で通勤ではなくリモート主体の働き方にシフトしていたので、であれば思い切って東京を離れてみようと思い、妻の故郷である金沢に2022年に引っ越してきました。

LIFTを金沢でやる理由

ーー急展開ですね。このときに LIFT の登記も金沢に移されたんですよね

岡田:基本は職住近接がいいので、そうしました。2022年の下半期に東京のことを整理して、金沢に移した LIFT を活動の中心にしようと決めました。関わった会社はどれも好きだったので今でも顧問などで関わらせてもらっていますが、軸は自分で作った LIFT に置こうと。

それで、金沢での活動に絞ってみると、金沢というか地方はどこも似ているかもしれませんが、経済環境や雇用がやはり東京のそれとは少しづつ違ってるんだなということが見えてきました。たとえば金沢であれば地方都市の中でも人口に対して比較的若い世代の比率が高いですし、新幹線が通って移動がしやすくなったので統計から見ればポテンシャルが高い地域です。でも産業面では業種の配分が偏っているので若者から見たら就職先が限られているんですよね。なので他の地方都市と同じく、若い人ほど県外へ出ていきやすい。

もちろん若い人が都会に流れて行くのは自然なことなのでそれ自体はなにも問題ではないですが、地元志向の方やUターン・Iターンの受け皿が少ないのは中長期的に見れば地域の大きな課題です。なので、雇用は絶対数だけではなくバラエティこそ必要なのだという思いに至りました。

LIFT はまだまだ零細企業なので生み出せる雇用は全体から見たら誤差ですが、もし石川県でも首都圏やグローバルと同水準のマーケティングや広告運用が提供できる環境がつくれれば、地域の雇用にバラエティを生み出すことにつながるのではないかと考えています。

よく「なぜ金沢へ?」と聞かれるのですが、金沢だったのはたまたまというか、ほぼプライベートの事情です。では「なぜ金沢で続けるのか?」と問われれば、ここでやる意味があるからだと答えます。もし東京に住みつづけていたら LIFT は最後まで一人コンサル会社だったと思うので。

このあたりのインタビューでも似たようなことを話しています

ーーありがとうございます。最後に、LIFT をどんな会社にしていきたいですか?

岡田:うーん、よくもわるくも「ふつう」の会社ですかね。よいクライアントに恵まれ、ちゃんと価値が提供できていると自他ともに認められる、自分たちは特別なんだといちいちアピールしなくても済む、そんなふつうで真っ当な会社がいいなと思います。

世の中は変化がいちいち早いので、たぶん自分たちが変わるより先に周りがどんどん変わっていくと思います。仕事は一般的に目標から逆算するものというのが常識ですが、このご時世でそういう一直線に描いて実現できるものってそんなに多くはないので、であればむしろ道草を楽しみつつ次の展開を考えていきたいとは思います。偶発性を楽しめる程度のフットワークや柔軟性は持っていたいです。

規模とかそういう目標も今のところ特にないです。もちろん、ある程度サイズがないとできないことも多いので、「ちゃんと価値が提供できている」証左としての規模やケイパビリティは常に意識していきたいと思います。

ーーどんな人と一緒に働きたいですか?

岡田:そうだな、「明るい人」ですかね。会社はいつでも順風満帆というわけにはいかないので、かならず雨が降ったり逆風が吹いているときがあります。そういうときに支えになるのは「希望」と「明るい仲間」です。希望をつくるのが社長の仕事だとすると、その明かりを一緒に感じられる人がいい。

特に私は根暗だから、周りが明るいと助かりますし(笑)

編集後記 :岡田さんはことあるごとに「なんで金沢に?」と聞かれるそうです。そのときいつも「”なんで” じゃなくて “ようこそ” 金沢へ」でいいじゃんと思うそう。「ふつう」の会社を作りたいという言葉も、過去の経験からにじみ出ているようで強く温かい意思を感じました。LIFT の歩みに今後も期待です!