2019年1月〜 あなたに付け足されるもの。

歳をとればとるほど、月日の流れが若いころの何倍速かで進みます。1月がもう終わりとは!

どんなに小さな会社でも、小さいなりに気忙しい意思決定のジェットコースターは続くもので、新年最初の月から盛りだくさん(当社比)でいろいろと決めることがありました。(まあ、決めたそばから覆る、なんてこともあるわけですが…)

最初は靄がかっていた景色も、丁寧に確定要素を積んでいくと、あるときパッと拓けることがあるものです。別にこれを書いている今現在で何かが拓けているわけではないのですが、その「パッと拓ける感」は何となく信じているので、いつかのその時のために、いつもどおり小さな決めごとを確実に毎日履行していくしかないよね、と思っています。

LIFTのトップページのタグラインは「今日、できることをやろう。」ですし。

話を変えて、2019年最初の月は、昨年のペースを保ったままたくさんの本を買い込んだ月でもありました。たくさん買ったなあ。読めないけど。

今年はリセッションになるという予測が大半を占めていますが、景気の循環は産業の節目でもありまして、私のシュミの分野でいうと、昨今の出版不況の結実として本屋がどんどん閉まっています。1月もいくつかの老舗書店の閉店ニュースを耳にすることになり、その結果、何だかいつも以上に大量に買い込むことになりました。

中でも、東京千駄木の「古書 信天翁」さんの閉店はなかなかショックでした。

良質な書店は街の景観に資すところ大だなと思っておりまして、裏を返せば書店がない街の風景は、(そこが世間的にどんなにオサレスポットであったとしても)どこか色彩が足らないように感じてしまいます。私個人は普段から習慣で無駄に本を買ってしまう人種ですが、閉店でもしないと本が売れないというのが古書店の寂しい現実でもあるようです。

世の中に流通するパッケージ化された活字の総量はインターネットによって加速度的に増えていますし、それ以上にストックもパッケージもされないフローの活字群がソーシャルメディアの隆盛によって爆発的に増加しているわけですから、動画とかゲームとか睡眠とかの可処分時間上の競合を議論する前に、単純にメディアとしての書籍がキツいのは仕方がないと思います。「活字離れ」じゃなくて、「活字が多すぎる」んでしょう。

そう考えると、好んで読む作家の文章がパッケージ化されて流通すること自体、既に贅沢品の領域なのかもしれません。

1月は、長嶋有さんと絲山秋子さんという、私的二大巨頭が揃って新刊を出してくれた贅沢な月でもありましたが、中でも長嶋有▶『私に付け足されるもの』は、わざわざ代官山蔦屋のトークショーを予約して著者ご本人にサインしてもらうくらい楽しみにしていました。

私に付け足されるもの (文芸書)

情報も流通も、インターネットによって既に量的に飽和している現在、物理的な個の生存戦略はおそらく質になるはずです。

長嶋さんも絲山さんも、現代の日本語で書かれた物語において、質的な面で突出しているからこそパッケージとして成立しています。願わくば自分の仕事もそうありたいと思いながら、寝る前にちびちびと読み進めています。