8月の最終週に、個人的には大きめのリリースが出ました。
リリースと同じタイミングで、長い付き合いであり今回改めて同僚となった semlabo ことあべさんが、以下の note を出しています。(衝撃の結末あり)
リンク:株式会社フィードフォースの取締役に就任します。|semlabo
お読みいただくとわかりますが、文中で『貞観政要』が引用されています。
李世民が魏徴を自らの鏡として悼んだ、同書の中でもたいへん有名な一節です。
銅を鏡にすれば、衣服や身なりを整えることができる。歴史を鏡とすれば、人の世の興隆や衰亡を知ることができる。人を鏡とすれば、自分の行いを正すことができる。厳しいことをいってくれる魏徴は、鏡のような存在であった。魏徴を失い、私は一面の鏡を失ってしまった
私はこれを読んで、なぜかファーストリテイリング柳井会長の著書『一勝九敗』のことを思い出しました。
たいへん売れた本なので読んだ方も多いと思います。
ちなみに正直に申し上げると、私は(この記事を書くにあたって読み返すまで)ほとんど何が書いてあったか憶えてなかったです。
でも、以下の一節だけはなぜだか鮮明に憶えていました。
なぜこのエピソードがこの本に必要だったのかが分からず、ずっと引っかかりがあったから憶えていたんだと思います。
以下、ちょっと長いですが引用します。
ぼくは、わがままで欠点の多い人間だとは思うが、「自分自身を客観的に分析・評価できる」という長所を持っている。
以前、当社の役員と部長全員で360度評価というものをやってみた。
自分自身の能力について、自己評価したものと周囲の人たちに評価してもらったものを比較する。
ぼくの結果は、両者が「ほとんど同じ」だった。
ぼく以外の人たちは、自己評価と他者評価がそうとう乖離していた。
ぼくは自信過剰になることもないかわりに、卑下することもない性格のようだ。
ぼくが従来の経営者タイプと違うように見られるとすれば、この点が大きいかもしれない。
別に自慢したくて述べたわけではない。
この「自分自身を客観的に分析・評価できる」ことは本来、経営者に必要な資質なのではないか、と思うからだ。
私は、ここに李世民の言う「鏡」が見える気がするのです。
『一勝九敗』は文庫版の発売が2006年(単行本は2003年)なので、おそらくその年か翌年には読んでいるはずです。
当時まだ20代の岡田青年はこう思いました。
「ヒマそうな役員会やなあ」
と。
ひどい話です。
20代後半の岡田青年は完全にイキっているので、なぜそれを重要な役職者全員でやる必要があったのか、という文脈に想像が及ばないんですね。もっと他にやることや決めることあるだろうと、そう思っちゃったんです。
あれから十数年経って、立派なおっさんになった今は、「柳井さんはすげえ」と、心から思います。
だって鏡いらないじゃん。魏徴がいなくても自分が見れてしまうってことでしょ。そりゃチートです。
客観的な評価とは、言い換えれば「自己認識と他己認識のズレそのものを第三者の視点で認識できる」ことです。
これは、人間を相手にするあらゆる局面において重要な技能だと思います。
どんなに事務処理能力が高くても、どんなに演算能力が高くても、どんなに特殊技能があったとしても、この視点を獲得していないがゆえにうまくいかない人は本当に多いです。私も含め。
※私は事務処理能力も演算能力も低いですが…
だからこそ、人は鏡を求めつづける必要があるのだと思います。
お互いがお互いの鏡である、そんな経営陣をつくっていきたいものです。