2020年7月〜 他者(の仕事)に敬意を払うことについて

7月はずっと雨でしたね。

突然ですが、職業柄、人さまからコメントやアドバイスを求められたりすることが多くあります。

そのたびに、「大した話はできないんですけど…」と言いながらほんとうに大したことがない話をしています。(大丈夫かな…)

ちなみに、大したことがありそうな話をするのはかんたんで、

・珍しい語彙や慣用句を使い
・引用可能な比喩を織り交ぜつつ
・言い切る

と、なんだかそれっぽい化粧がほどこされ、ふしぎと大した話のように聞こえます。というわけで私もつねづね胸を張って言い切っていれば格好がつくんだと思うのですが、ほんとうに大したことない話しかできないので、毎度のごとく言いよどみ、歯切れの悪い発言を繰り返してここまで来てしまいました。

ついでにいうと、「人の仕事にケチをつける」のも、大したことがありそうに見せる手段としては有効です。内容がどうであれ、ケチをつけるとその瞬間に強制的に批評-被批評の構造が立ち上がる(捏造される)ので、批評している方がなんとなく賢そうに見えるからです。

私は仕事をするときは以下のチェスタートンの格言を意識することが多いのですが、

なぜフェンスが建てられたのかわかるまで、決してフェンスをとりはずしてはならない
(Don’t ever take a fence down until you know the reason it was put up)

この、とっても慎重でコンサバな格言が妙に好きなのは、そこに「想像力」と「敬意」が働いているからだと思います。

「想像力」と「敬意」は並列なんでしょうか。

私は想像力から敬意が生まれることが多いのではないかと思っています。

一般に、知らないことは想像しにくいものです。でも、仮に想像ができなくても、「想像ができない世界がこの世には存在しうる」という想像はできるはずです。その想像こそが「敬意」なのではないかと。

だから、「自分は何でも知っている」とでも言わんばかりに人の仕事に無遠慮に踏み込んでくる行為や表現は、敬意を欠いた行動、つまり想像力が乏しいという表明に他ならないのではないか。

チェスタートンのフェンスは、そういうことを言っているんだと思います。

見える化、定量化によって細かく事実関係をつっつくようなことは以前よりもやりやすくなりました。コロナ禍によって、ワークフローにはますますデジタルが介在し、あらゆるところに証跡が残る世界へと進んでいます。

人さまから求められるコメントやアドバイスの機会は、常に想像力と敬意を試されている機会でもあります。

ますます増える表面上の情報(データ)をこねくり回すような仕事を、いかに想像力と敬意とを以って知的な作業に落とし込んでいくか。

それが、これからやらなければいけない仕事なんだろうなと、そんなことを思っています。