計画は補助線

先日、個人で出資しているファンドの報告会に出席したときに思ったこと。

そのファンドはいわゆるソーシャルやローカルといった文脈のもので、大きなスケールアップは目指さない(目指せない)けれど、社会的に必要な場所をつくり、健全に運営していくためのイニシャルコストを賄う目的でつくられていた。

私は昔からNPO界隈に出入りすることが多いので、こういった非営利や社会的な事業に投資するという性質の商品に触れることもまた多い。大抵は元本割れしちゃうのだけど、最初から寄付だと割り切るようにしているし、寄付したいと思わせるような意義深い目的で組成されているので、何があっても精神面でのダメージはない。

計画と偶発

志(こころざし)が優先される取り組みと、リターンを求める金融商品は、本来はミスマッチだと個人的には思う。

内容がソーシャルでサスティナブルだからというより、大前提としてスタートアップが計画どおり進むわけはなく、偶発性が生む落とし穴やジャンプアップがあって然るべきだからで、計画によって不確実性がコントロールできるわけではない。むしろ柔軟性が計画という縛りによって失われるリスクのほうが大きいはず。

一方で、資金を出す側の資本コストをリターンに乗せなければ商品として成立しないので、そのためには将来を見通す計画が必要になる。予測しないほうがいいものを、予測する必要があるのだ。

だから、こういう場合の計画は、ほとんど虚構のようなものになる。

計画はアグレッシブに描いたほうがお金が集まりやすい。ただ同時に、そのアグレッシブさによって拘束も強まりがちだ。油断すると丁寧さよりも拡大が優先され(リターンが必要なので当然なのだけど)、どんどん当初の志から離れていってしまう。そのバランスに創業者は苦悩する。マッチポンプだなあと思う。

(誤解がないように添えると、報告会自体はとてもよいものでした)

補助線としての虚構

計画は虚構ではあるものの、その虚構がないと確認も追跡も検証もできない。思い立つことも、志を立てることも、解決したい課題も仲間や資金を募ることもできない。

野原に放り出されて自分で道筋を立てて前に進める人は少ないし、計画がなければ本人以外にとってはすべて白紙でしかないので、進んでいることも後退していることも、あるいは回り道していることも説明することができない。

だから計画自体は虚構だけど、必要なのだ。

志と現実のあいだに引く、補助線みたいなものだと思う。

補助線があればズレているのか沿っているのかがわかるし、それがいいことなのかよくないことなのかはあくまで状況が決めることであって、計画そのものはもともとただの虚構だからそれ自身にいいも悪いもない。

計画をもとにお金をたくさん集めていれば強い約束として行動を規定するし、自分の方向性を確認するためのコンパスとしての計画であれば、計画は行動を起こすきっかけや起爆剤になったりもする。状況が決めるというのはそういうことだ。

計画は補助線。「どう使うか」だけが意味をもたらすのかなと思う。せっかく立てるならうまく使いたいものです。