レスポンシブ検索広告のアセット固定(ピン止め)に生じる、「うしろめたさ」に抗う

この感覚が広告運用者にとって一般的かどうか自信がないけれど、私は Google や Yahoo! のレスポンシブ検索広告のアセットを固定する(いわゆる「ピン止め」をする)際に、かすかな「うしろめたさ」を感じてしまう。

多様なクエリと、静的な広告

検索広告は、基本的にはずっと静的なものだった。もちろん、広告表示オプション(現在の「アセット」)は以前から動的だったし、拡張テキスト広告になって文字数が増えたりもしたけど、広告文の中核をなすタイトル(現在の「広告見出し」)と説明文はいつもどっしりと固定されていた。

その広告を出すか出さないかの判断の一つに、検索クエリとキーワードのマッチングがある。検索エンジンに日々放り込まれる検索クエリはおそらく我々が想像するよりも多様かつ豊穣で、日々の検索の約 15% は、それ以前に一度も検索されたことのないクエリが占めていると言われている。

常に新鮮で、この瞬間も広がりつづける多様性の海としての検索クエリ。この茫洋としたテキストの大海原の中で、関連性(Relevancy)を失わずに広告をマッチングさせていくために、検索広告は進化してきた。

たとえば Google は2010年代以降、定期的にマッチタイプの基準をゆるめ、適用(拡張)範囲を広げている。ゆるめすぎたせいで必要なくなったので、2021年にはそれまで4種類あったマッチタイプの一つ「絞り込み部分一致(Broad match modifier)」を廃止したくらいである。

ゆるめた理由はいたってシンプル。なるべくたくさんの検索クエリに広告を出すためだ。

一方で、どんなにキーワードのカバー範囲が広がっても、表示される広告が常に同じではマッチングの精度は上がらない。広告を出すのはシステムだが、見るのは人なのだ。人の興味がクエリの数だけあるのだとしたら、それを一種類のテキストだけで表現するのはむずかしい。

オルタナティブとしての動的な広告

そこで発明されたのが、レスポンシブ検索広告である。インプレッションの機会ごとに表示されるアセットの組み合わせが入れ替わり、学習しながら組み合わせを変えていく、動的な広告のことだ。

レスポンシブ検索広告の設定と表示(例)

レスポンシブ検索広告は、静的だったテキスト広告を動的に変えるために2018年に発明され、その4年後の2022年には強制的に標準的な広告になっている。強制的に、と書いたのは、2022年6月をデッドラインとして、それ以降は静的な広告である拡張テキスト広告が作成できなくなっているからだ。

この短いスパンでの強制的な移行は、広告を動的にするという Google の強い意志を感じてしまう。発生の経緯からしても、レスポンシブ検索広告は動的であることが存在意義なのだ。かっこよく言えば、動的であることがこの広告のレゾンデートルなのだろう。

「ピン止め」は存在意義を脅かす行為

ここで冒頭で書いた私の「うしろめたさ」を改めて思い返してみると、見出しや説明文といったアセットの表示位置を固定するいわゆる「ピン止め」という行為は、レスポンシブ検索広告のダイナミズムに制限を加えるのと同義だということに気づく。動的なものをあえて静的にする設定。言い換えれば、ピン止めはレゾンデートルを脅かす行為なのだ。

実際、アセットの固定は公式には推奨されていない。

Google 広告のヘルプにも以下のような注意書きがある。(下線は筆者による)

広告見出しまたは説明文を固定すると、その特定の位置にのみ表示されるようになり、他の広告見出しと説明文はその場所に表示されなくなります。また、見込み顧客の検索に一致する広告見出しと説明文の総数が減り、広告の有効性にも影響が生じるため、ほとんどの場合推奨されません。

https://support.google.com/google-ads/answer/7684791?hl=ja

(レゾンデートルを脅かすんだからそりゃ推奨しないよな…)と思いつつ、現場ではピン止めしたい場面が多いのもまた事実。

まず、そんなにたくさん言いたいことはない。情緒的であろうとするほど、前後が入れ替われば日本語は不自然に映ってしまう。

ユーザーに伝えたいことはあらかじめ決まっているし、サービスの特性上必ず明記しないといけないこともある。

それに、語彙を増やすための誇大広告なんて本末転倒だ。ユーザーにウソはつけないだろう。 

… よし、ピン止めしよう。

 

こうして、ピン止めした広告はつくられていく。

繰り返すが、ピン止めは推奨されていない。でも、システムが推奨しないことを敢えてしないといけない。存在意義を否定しているかもしれない。

私の感じるかすかな「うしろめたさ」は、おそらくこのあたりからやってくるのだと思う。

うしろめたさの構造

「うしろめたさ」は、レスポンシブ検索広告の存在意義が ”動的である” という前提を拠りどころにしている。

すでに書いたように、検索はおそろしく多様な世界なので、その多様性にマッチングさせるには広告は動的でなくてはならない。圧倒的な多様性の前には、動的であること、変化していくことが常に善なのだ。

そして、「ピン止め」はその変化を制限する行為だといえる。変化は善なのに、その善に抵抗するということ。

善へ抵抗するものは一般的には悪だ。自分の広告のために微かな悪を行う必要があるという構図だ。必要悪を受け入れるのはストレスがかかる。この小さなストレスが、うしろめたさの源泉となる。

でも、広告の仕事をしていれば広告文をつくる場面は多いし、見直すことも多い。いつもうしろめたさを感じながら仕事をするのはあまり健康的な状況とはいえない。

なんとかうしろめたくなくなるための理論武装が必要である(大袈裟)。

武装できないまでも、抵抗はしたい。

「動的=善」という前提を疑う

そもそも、動的であることは本当に常に善なのだろうか?

松村圭一郎さんの『うしろめたさの人類学』に、以下のような一節がある。

最初から身の回りのことがすべて本質的にこうだと決まっていたら、どうすることもできない。でもそれが構築されているのであれば、また構築しなおすことが可能だ

松村圭一郎『うしろめたさの人類学』

検索という多様性に対して多様な(動的な)広告でしか立ち向かえないと決まっていたら、たしかにどうすることもできない。

でも、それは検索エンジン側の理屈のはずだ。たしかに検索クエリは多様なので動的に対処したほうが精度が上がる。そのために AI を発展させているわけだし、プラットフォーム側はどんどん学習を進めないといけないだろう。

でも、広告を出す主体は私自身、ただひとり(一社)だ。まだ見ぬ誰かに、あるいはもう一度、言いたいことがあるからこそ、私たちはお金を払って広告を出しているのである。

こういう人に、あんな状況にある人に、そんなことで困っている人に、今この瞬間に思いついちゃった人に、私の商品やサービスがあるよと伝えたい。

これは多様な中から自分と相手が出会う場所を見つける行為そのものだ。

たとえば、状況が曖昧で多様であれば、そのための広告表現は多岐にわたったほうが(動的であったほうが)マッチングの可能性は高まるかもしれない。でも、相手のニーズがはっきりしていれば、広告で伝えるべき表現は絞られるはずだ。そして実際、我々はその表現が適切な人に伝わるように広告グループのキーワードやマッチタイプを設計している。

ニーズの多様性とアセット数には正の相関がある?

この仮説を大雑把に図にしてみる。タテに広告表現(アセット)の数、ヨコにニーズや状況の幅をとった場合、こういう正の相関を描くように広告グループを作っているはずだ。状況を具体化・個別化できていればいるほど、必要な広告表現は絞られていく。

「ユニクロ」と検索する人は GAP や無印良品ではなくユニクロのトップページや近隣の店舗に今すぐ行きたいはずだし、「ダウンコート ロング」であれば、たくさんの候補から自分に合う丈の長いダウンコートをウィンドウショッピングのように眺めたいはずだ。それぞれにふさわしい広告表現があるし、検索結果があるだろう。

レスポンシブ検索広告はシステム側が事後的に構築した制度で、現在の私たちはそれ以外の方法を利用することができない。でも、もし上図の相関が成立するようなキャンペーン構成が作れているのだとすれば、ピン止めは単なる制限ではなく、具体化のための営みだといえる。うしろめたさを感じる必要はないはずだ。

実際、アメリカの広告代理店の OPTMYZR社は、レスポンシブ検索広告を「まったくピン止めしなかった場合」と「いくつかのアセットにピン止めした場合」、「すべてにピン止めした場合」の3種類でクリック率とコンバージョン率を比較したところ、ピン止めしたほうがコンバージョン率が有意に高かったという結果を公開している。

引用: What Are Google Responsive Search Ads?

もちろんケース・バイ・ケースと言ってしまえばそれまでだが、OPTMYZR社は Old Googler の Frederick Vallaeys 氏が長年経営している質の高い運用会社として知られており、彼らが運用するアカウントの構成は、ある程度しっかりしたキャンペーン構造だと想像できる。

だからこそ、すでにテーマごとに構造化されていた広告グループであればあるほど、広告文を曖昧ではなく具体化していく「ピン止め」の役割が際立ってくるはずだ。上記のテスト結果はその一つの証左だと言えるだろう。(ちなみに Adalysis でも同様のテスト結果を公開している)

運用者の良心

多様こそが善であるという前提においては、「ピン止め」はうしろめたさの源泉だった。

でも、こういったうしろめたさやちょっとしたモヤモヤを感じさせるルールや制度は、これらが「あとから構築されたもの」だと気づく手がかりになる。

広告の運用者としての良心は、常にプラットフォームにフェアネス(公平さ)を求める。他の人のことはわからないけど、少なくとも私はそう思う。なぜならプラットフォームのルールにある種の偏りがあると、ゲームの生態系が崩れたり、ゲームそのものが成立しなくなるからだ。もしモヤモヤしたルールがあれば良心はフェアネスを回復しようとして動き出す。その時に感じるのがこの「うしろめたさ」なのかもしれない。

インターネットは広告主にとって見込み顧客を増やすことができる有力なチャネルであり、同時に 見込み顧客側である法人あるいは個人にとっても、自身の選択肢や取引を探すことができ、新鮮な出会いや驚きを見つけられる場所でもある。

一方で、そのインターネットを支える広告というビジネスは、AI の発展にともなってアルゴリズムが好む嗜好や様式へ向かって加速しやすい性質を帯びている。データがはじき出す予測値という壁が、新しい可能性を阻みやすくなってきている。

誰になにを贈るために働いているのか。まずはそれを意識することから始める。「贈り先」が意識できない仕事であれば、たぶん立ち止まったほうがいい

松村圭一郎『うしろめたさの人類学』

この広告で伝えたいことは何なのか。誰にこの言葉を伝えたいのか。

検索広告はそれが意識できるように構造化されているはずで、それをできるようにするのが(拡張テキスト広告なきあとの)レスポンシブ検索広告の「ピン止め」なのだと思う。

システムが要請する多様性に任せるだけだと、運用は運用でなくなってしまう。「この広告で伝えたいことはこれなんだ」と、自信をもってこれからも「ピン止め」していく勇気を持っていきたい。うしろめたさに対抗できるのは、その勇気であるはずだから。